甲州街道小原宿本陣(旧清水家)は、神奈川県相模原市にあり、先祖は、後北条氏に仕えた家柄で江戸時代は本陣・庄屋などを勤めていました。
現在の主屋は、江戸時代後期の建築で大きさは、桁行13間、梁間7間で屋根は、入母屋(カブト)造で銅板葺きになっていました。
間取りは、大戸口を入ると土間があり、その奥に住居部の、囲炉裏のある板の間、広間・茶の間・納戸があり、土間の左手に本陣部分の、玄関の間・控の間・中の間・上段の間などの部屋があり、雛人形や、大名篭、農機具(2F)などが展示されており当時の様子が窺えました。
また、屋敷の上手側には、斜面を利用した観賞式庭園があり、大名や公家・役人が宿泊の際に眺めたんだろう~と想像しながら物思いに更けいりました。
近くには、駐車場を兼ねる、小原の郷と言う歴史資料館があり、こちらも楽しめました。
甲州街道日野宿本陣(旧佐藤家)は、東京都日野市にあり、1849年の大火で焼失しましたが、佐藤彦五郎が10年の歳月をかけて現在の建物を再建し、江戸時代の、本陣・名主の住居建築として現在、市の文化財に指定されています。
主屋は、切妻瓦葺で、入母屋の式台玄関があり格式の高さが窺えました。
間取りは、土間・広間・玄関の間・控えの間・勝手・茶の間・仏間・納戸・上段の間で構成されており南側の縁側からの庭園も見所でした。
また、天然理心流に入門した彦五郎は、屋敷の東側に佐藤道場を開設し、この道場に、新撰組の近藤勇・土方歳三・沖田総司などが出稽古をしていた所としても知られています。
ps、だいちが隠れています。どこでしょう?
高山陣屋は、岐阜県高山市にあり、飛騨高山藩主であった金森氏の下屋敷でしたが、1692年に飛騨国は、幕府の直轄地になった為、以後代官所として使用され、1777年以降は郡代役所となり、維新後は、高山県庁舎として使用されました。
現在の主屋は、1816年に改築されたもので、日本に唯一残る、郡代所として、とても貴重なものです。
印象的だったのが、屋根全体が板葺きになっていたことと、大きな米蔵で、大きさから相当量の米が運び込まれていたのが解り、見所でした。
また付近には、三町・下二之町大新町と伝統的建造物群保存地区があり、出格子の連なる風情や造り酒屋の杉玉、軒下を流れる用水の音が、とてもいい心地でした。
東茶屋街は、石川県金沢市にあり、金沢百万石の城下町として江戸・大阪・京都に次ぐ大都市で、1820年に加賀藩によって、旧来の不整形な町割をあらため、犀川西側の西茶屋街、浅野川東の東茶屋街、、主計町茶屋街など、整形な街区が形成され、現在江戸時代から明治初期の茶屋建築が多く遺されており、伝統的建造物群保存地区に指定されています。
東山ひがし(東茶屋街)は、茶屋の風情を現在最もとどめている街の1つで、石畳の街路に面して、一階に出格子、二階の建ちを高くして二階に座敷を置く茶屋町らしい町家が連なり、灯篭や、暖簾、など茶屋町の風情がとてもいい景観でした。
ps.だいちとそらもカキ氷を食べて雰囲気を満喫していました。
絵島囲み屋敷は、長野県伊那市高遠町にある歴史博物館ないにあり、1414年に起こった絵島・生島事件(6代将軍家宣の命日に月光院の代わりに墓参した帰りに芝居見物し問題とされた事件)によって、時の老中秋元但馬守によって死罪となるものの、月光院の口利きによって高遠に遠流になり、1741年に61歳で亡くなるまでの28年間幽閉生活を送りました。
絵島は32歳で当時幕府の大奥にいた数百人の女中のうちの上役年寄7人の主席、大年寄として、権力を持っていましたが、流刑の地である高遠で見張りに囲まれ過ごした部屋は、わずか8畳1間であり、ここで過ごした日々は、さぞ大変であったろう~~と思い、当時の生活ぶりを偲びました。
また、屋敷は板塀でまさに囲まれており鋭く尖った忍び返しなど、物々しく監視の厳重さと垣間見る高遠湖・山々の紅葉を見ながら、絵島も見たものと思いしばらく見入りました。
湯島聖堂は、東京都文京区湯島にあり、もともと林羅山が上野忍岡の屋敷地で営んだ儒学の私塾が始まりとされ、1690年に五代将軍徳川綱吉によって当地に移され江戸幕府直轄の教学機関として機能し、日本の学校教育の発祥の地として国の史跡に指定されています。
また、当地には昌平坂学問所(現在の筑波大学、お茶の水女子大学の前身)も設立され、明治4年に閉鎖されると跡地は、日本最初の博物館(国立博物館)や文部省の前身となり現在も東京医科歯科大のキャンパスとして使われています
見所は、関東大震災にも耐えた入徳門(1704年建立)を入り石段を登った先にある杏壇門や大成殿(孔子廟)などの黒漆と銅瓦による重厚な建築で、石畳を敷き詰めた回廊からの存在感溢れる景観がなんとも良い感じでした。