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城大好きパパ アーカイブ

2008年11月25日

彦根城

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彦根城は近江国(現滋賀県彦根市)に、徳川四天王の1人、井伊直政が関ヶ原合戦後、石田光成の旧領佐和山、北近江18万石を拝領し、近畿7ヶ国12大名により、天下普請で築かれました。
天守閣(国宝)は、直政の世子直継が1606年に完成させ、三層三階、切妻破風や入母屋破風、軒唐破風など様々な飾り屋根を持っている。また、二層、三層目の花頭窓、高欄がとても優美で江戸初期と言うよりも、桃山時代の雰囲気を漂わせていました。
二つの櫓を持つ天秤櫓も見所で、長浜城の大手門を移築したものと伝えられ、石垣は、右側が築城当時の牛蒡積み、左側が切り込はぎ積みになっており、重文に指定されている。
彦根藩は、その後、大阪の陣の功により35万石の大大名となり、大老や老中を数多く輩出しました。
ps.ヒコにゃんが微妙に写真に写っています~。探してみて~。

2008年11月26日

犬山城

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犬山城は、尾張国(現愛知県犬山市)の城で小牧、長久手の戦いで落城し、現在の城郭は、関ヶ原の戦いの後城主となった小笠原吉次によって1601年に近世城郭に改修された。その後、尾張徳川家付家老成瀬正成が城主となり、明治維新で大名に列した(3万石)。また近年まで成瀬氏私有の城として知られた。
国宝の天守閣は、外観は3層だが内部は4階さらに地下2階で6層になっている。見所は、最上階の望楼、3階の唐破風、切妻屋根の付櫓、そして何より木曽川と濃尾平野の景色がとても印象的でした。

2008年11月27日

松本城

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松本城は信濃国(現長野県松本市)にあり、戦国時代は、小笠原氏、武田氏の城で当時は深志城と呼ばれ、武田4名臣の1人、馬場美濃守信春が城代を務めていました。
その後、豊臣期に石川和正が8万石で入封し、1591年から松本城の普請にかかり、1596年には完成したとみられている。
その後、松本藩主は、譜代、親藩、家門大名が、しばしば代わり松平(戸田)氏6万石の時代に明治維新をむかえている。
国宝の天守は、大天守と乾小天守の連結式天守で5層6階地下1階、外観下見板張り、さらに、辰巳付櫓と月見櫓が組み込まれた複合式天守の顔も持ち合わせている。また、戦国期の城だけに、各階に鉄砲狭間を設け、1階には石落しも備えた実戦的な造りでした。
また、二の丸御殿跡に珍しい御金蔵がありました。
雪化粧の北アルプス(常念岳)と天守群、内堀の水面に映る天守閣がとても綺麗でした。

2008年11月28日

松江城

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松江城は、出雲国(現島根県松江市)に関ヶ原の戦いの後、出雲、隠岐24万石の領主となった堀尾吉晴が1607年に宍道湖畔の亀田山に築城を開始、忠氏、忠晴と築城し完成させている。

重文の天守は、山陰唯一の現存天守で、外観4層、内部5階地下1階で6階層になっている。2層の大入母屋の上に2層の望楼を載せた初期の望楼方天守で、蓋付狭間が94箇所もあり、実践的であり2層目にも石落しを設けており、優美な桃山風天守でした。

また、内堀越しに見る高石垣と南櫓、中櫓。塩見縄手の武家屋敷群・小泉八雲旧宅など町並みがとても綺麗でした。

2008年11月29日

伊予松山城

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松山城は伊予国(現愛媛県松山市)に、1595年加藤嘉明が久米、温泉、野間、伊予の四郡6万石を拝領し関ヶ原合戦後20万石に増封され、勝山山頂に1602年から26年もの歳月をかけて築城した平山城で、その後、加藤氏は会津40万石に転封、蒲生氏(20万石)、松平(久松)氏(15万石)と続き明治を迎えている。
重文の天守は、1852年の再建で、地下1階、地上3層3階大天守を中心に小天守、南櫓、北櫓を多門で結ぶ、連結式天守ですが、工事中であまり見えませんでした。
また、二の丸史跡庭園には、東西18メートル、南北9メートルの巨大な井戸があり見ごたえがありました。

2008年11月30日

熊本城

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熊本城は肥後国(現熊本県熊本市)に加藤清正が1607年に52万石の大名にふさわしい壮大な城を完成させた。
その後、加藤家は子の忠広の代に改易されかわって細川家が54万石で入封した。
日本三大名城の一つで、場内には、大天守、小天守、宇土櫓など49の櫓が林立する壮大な城である。
天守は5層6階の大天守に3層4階の小天守の望楼型連結式天守で、1階は石垣より大きく張り出し武者返しの石落しになっていました。
重文の宇土櫓は3層5階で天守と呼んでもいい規模で西南戦争で唯一焼け残った多層櫓で、とても立派でした。
そして何より見所だったのが二様の石垣と呼ばれる打込みはぎの高石垣で高さは約20メートル、緩やかに弧を描く石垣が加藤時代のもの、急勾配の石垣が細川時代のものでとても綺麗でした。

2008年12月01日

鹿児島城

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鹿児島城(鶴丸城)は、薩摩国(現鹿児島県鹿児島市)に島津義弘の子家久が薩摩、大隈72万8千石の旧領を安堵され、1602年城山の麓に館城を築いた。
この城は、天守や櫓をもたず、戦国時代から領内に城砦を築き内城を護る為の外城を設置した為でその数は100を超えた。
篤姫でおなじみの今泉島津家もその一つで、後に斉彬の養女として13代将軍家定に嫁いだ。
城跡は、枡形を残し、内堀には蓮の花が咲き乱れていました。
城山からの櫻島はとても綺麗でした。

2008年12月05日

五稜郭

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五稜郭は蝦夷地(現北海道函館市)に幕府が、8年の歳月をかけ1864年に完成させ、正式名称は亀田御役所土塁ですが、形から五稜郭と呼ばれています。
オランダ式の陵保型城塞で、縄張は五角形の星型、各稜頭には、砲台を設けていました。
幕府の直轄地のため、箱館奉行所が置かれ箱館奉行、小出秀実が城代として入城しました。
また。戊辰戦争で榎本武揚、土方歳三、が率いる旧幕府軍が占領して蝦夷共和国設立を目指したが、1869年に新政府軍に降伏しました。
見所は、タワーからの五角形の累形や半月保(馬出)、跳ね出し石を上部に乗せた石垣(落石積)、カノン砲の砲台などでした。

2008年12月06日

江戸城

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江戸城は、武蔵国(現東京都千代田区)に1457年太田道灌が扇谷上杉氏の持城として、江戸湾を望む丘陵の北端に築いたのが始まりで、その後、後北条氏の滅亡により、1590年徳川家康が関東に移封(256万石)されて居城としました。
1603年家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開き、1604から全国の諸大名に命じた天下普請で江戸城の更なる築城を始め、三代将軍家光の時代に、わが国最大の近世城郭として完成し、徳川将軍家(400万石)の居城として明治まで続きました。
1869年明治天皇が西の丸を皇城とし、以後皇居として現在に至ります。
見所は、桜田門、大手門、切り込みはぎの巨石による天守台、二の丸庭園などで、内堀越しに見る、
二重橋、伏見櫓がとても綺麗でした。

2008年12月07日

松代城

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松代城は、信濃国(現長野県長野市)に、1553年から1564年まで5回に及ぶ川中島の合戦のために、武田信玄が、千曲川沿いの平地に築城したのが始まりで、当時は、海津城と呼ばれていました。
武田家滅亡後、、森長可、村上景国、田丸直昌と城主が代わる度に整備され、1600年、森忠政(13万7千石)が入封して近世城郭に整備された。
その後、家康の6男松平忠輝、松平忠昌(12万石)、酒井忠勝(10万石)、と続き1622年上田から真田信之(8万8千石)が入封して以降、真田氏の居城として明治まで存続しました。
現在城跡には、復元により、太鼓門櫓、橋詰門、北不明門、馬出の土塁、石垣などが整備されており、近くには、真田邸、旧松代藩文武学校、武家屋敷などが残っており、当時の面影を忍ばせていました。

2008年12月08日

伊賀上野城

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伊賀上野城は、伊賀国(現三重県伊賀市)に、1585年筒井定次が9万5千石で大和郡山より伊賀に入封し、上野盆地の北端に築かれた。
関ヶ原の戦いの後、筒井氏は改易となり、代わって1608年藤堂高虎が伊賀、伊勢22万石で入封し、1611年に大阪の豊臣氏に対する包囲の城として、大改修されたが、完成を待たずして、大阪の陣で豊臣氏は滅亡した為、未完のまま現在に至っています。
見所は、なんといっても高石垣で、本丸西側の打込みはぎの石垣は、高さ29メートルもあり、大阪城に次ぐ高さで、反りもなく、水堀と合わせて、とても豪壮でした。
また、旧天守台石垣も残っており、野面積みの石垣も見所でした。

2008年12月09日

中津城

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中津城は、豊前国(現大分県中津市)に、1587年秀吉より豊前6郡、12万5千石を拝領した黒田孝高が1588年に築城を始め、関ヶ原の戦い後、黒田氏は筑前に移封、替わって細川忠興が39万9千石で入封して総石垣の城郭に改修した。
日本三大水城の1つに数えられ、山国川河口に三角形に縄張りを作り北側には、周防灘が迫り、堀の水位も塩の満ち干きでかわるものでした。
その後、細川氏は肥後に転封、小笠原氏(8万石)、奥平氏(10万石)と続き明治を迎えている。
現在、城跡には、模擬五重天守、模擬二重櫓が立ち並びとても優美でした。また、近くには、福沢諭吉の旧宅も残っており、こちらもイイ感じでした。

2008年12月10日

首里城

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首里城は、琉球王国(現沖縄県那覇市)に、三山期に中山のグスクとして建設され、三山を統一した尚巴志王が整備を開始し、尚真王、尚清王が王城にふさわしい規模に拡張整備した。
1609年尚寧王の時代に薩摩島津氏の進攻により、島津軍は琉球上陸後わずか5日間で首里城を陥落させ、琉球を薩摩藩の支配下に治められました。
1879年尚泰王の時代に明治政府に首里城を明け渡し琉球王国は、消滅しました。
城跡は、国宝に指定されていましたが、戦災で破壊され、近年、正殿など主要部が復元整備され、平成12年世界遺産に登録されました。
正殿や守礼門など場内の建物のほとんどが朱塗りで、とても煌びやかで、ゆるやかな曲線の石垣と共に見所でした。

川越城

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川越城は、武蔵国(現埼玉県川越市)に1457年扇谷上杉持朝が、家臣、太田道真、道灌親子によって築城されました。
その後、北条氏の支城として、氏康による川越夜戦の舞台としても知られています。
秀吉による小田原攻めで、川越城も前田利家に攻められ落城しました。
家康の関東移封後は、譜代大名が入替わり、、1639年松平(大河内)信綱が6万石で入封して城下町や街道の整備、城の拡張を行い近世城郭にした。
松平(大河内)氏後、柳沢氏(7万2千石)、秋元氏(5万石)、松平氏(15万石)松平(松井)氏(8万石)と続き明治を迎えています。
現在、本丸御殿が残っており、玄関、広間の杉戸絵などが見事でした。また、家老詰所からの庭の眺めも癒されました。

2008年12月11日

甲府城

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甲府城は、甲斐国(現山梨県甲府市)に、武田家滅亡後、1585年徳川家康の家臣、平岩親吉が旧一条忠頼居館跡の小山に築城を始め、家康移封後、羽柴秀勝、加藤光泰に引き継がれ、浅野長政、
幸長の時代に完成した。
江戸時代になり、甲州街道の要の地である甲府を重要視した幕府は、
1609年徳川家康の9男徳川義直を25万石で入封、その後、2代将軍秀忠の3男徳川忠長(20石)、
3代将軍家光の3男徳川綱重(25万石)と続き、綱重の子綱豊が5代将軍綱吉の養嗣子となり
6代将軍家宣になりました。
1704年綱吉の側用人、柳沢吉保が15万1千石で入封、城の大修築、城下町の整備をおこないました。
1724年柳沢吉里が大和郡山に転風後、甲府は幕府の直轄地となり、
甲府勤番が明治まで在城しました。
近年、城跡は復元整備され、稲荷櫓、山の手門、鍛冶曲輪門、内松陰門、稲荷門があり、
野面積みの豪壮な天守台からの甲府盆地の眺めは最高でした。

2008年12月12日

高島城

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高島城は信濃国(現長野県諏訪市)に、1590年織田旧臣で、豊臣大名の日根野高吉が諏訪一帯を領し諏訪湖の湖水に囲まれた要害に7年の歳月をかけて築城した。
1601年日根野氏は転封、替わって諏訪頼水が旧領を回復し、2万7千石で入封し以後明治まで諏訪氏10代の居城として機能しました。
天守は昭和45年の再建で3層3階屋根はかつては杮葺ですが、銅板葺に改められ1層目の入母屋や3層目の切妻破風などの形態も改められています。

本丸北側から見た冠木橋や雪化粧の天守閣がとても綺麗で、天守からの諏訪湖の眺めも最高でした。

2008年12月14日

上田城

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上田城は、信濃国(現長野県上田市)に、1583年真田昌幸によって千曲川沿いの断崖に築かれた堅城で1585年、1600年と2度にわたり行なわれた、上田合戦で徳川軍を退けたことでも知られています。
関ヶ原合戦後、城は破却され、1601年昌幸の嫡男、真田信之が上田・沼田(9万5千石)で入封した。
1622年真田氏は松代に転封、替わって仙石忠政が(6万石)入封し1626年から現在見る、櫓、石垣、水堀、土塁を整備しました。
1706年仙石氏に替わり松平(藤井)氏が4万8千石で入封し、明治を迎えました。

上田城には現在3つの櫓が再移築されて現存しており、復元された本丸大手門と南櫓、北櫓が、凄く堅固な感じをかもしだしていました。
また、大手門北側の石垣に「真田石」と呼ばれる巨石がありとても印象的でした。

2008年12月15日

高田城

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高田城は、越後国(現新潟県上越市)に、1610年徳川家康の六男松平忠輝が越後と信濃で60万石を与えられ福島城に入城し、その後水害が多いことから拠点を移すべく1614年奥州や甲信越の大名や加賀の前田家、米沢の上杉家・伊達家など13家による天下普請によりわずか4ヶ月で完成しました。
1616年忠輝は不行跡を理由に改易、家門、譜代大名が6家入れ替わりました。
1741年榊原政永が15万石で入封して以降榊原氏の居城として明治を迎えました。
高田城は、石垣はなく、関東に多い土塁中心の城で、天守代用の三重櫓が平成5年に復元され、広大な内堀からの眺めが最高でした。

2008年12月16日

津城

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津城は、伊勢国(現三重県津市)に、1571年~1573年に伊勢平定の為、織田信長の弟信包が、安濃川と岩田川に挟まれた三角州上に天守を擁する城を築城した。
本能寺の変後、信包は移封、替わって冨田信広が入封し、その子信高の代に関ヶ原の合戦が勃発、
東軍に属した富田氏の津城は3万の西軍に包囲、攻撃され、天守は消失しました。
戦後、富田氏は5万石に加増され1608年宇和島に転封、替わって藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石で入封しました。
1611年城の大改修をし、本丸の3基の三重櫓や東・西の丸を囲む内堀、二の丸、外堀を整備し、更に城下町も整備し、お伊勢参りの人々で賑わいました。
その後、藤堂氏は11代続き明治を迎えています。
見所は、やはり高虎特有の反りの無い高石垣と犬走り、丑寅櫓を模擬復元した三重櫓、などで西の丸の庭園もウォーキングに最適でした。

2008年12月17日

大和郡山城

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大和郡山城は、大和国(現奈良県大和郡山市)に、1580年信長から大和一国を与えられた筒井順慶が築城ししました。
1585年筒井氏に替わり秀吉の弟、豊臣秀長が大和・紀伊・和泉100万石で入封し、城の拡張、整備され、秀長死後、増田長盛が城主の時に完成しました。城は、三重の堀をめぐらせ、5重5階の天守がそびえる壮大な城でした。
その後、増田氏は西軍につき改易、城には定番が在城していましたが、廃城となって荒廃、大阪の陣の時に焼失しました。
1616年水野勝成が6万石で入封し城は縮小した規模で再建されました。その後、譜代大名4家が入れ替わり1724年柳沢吉里が15万1千石で入封明治まで柳沢家が城を相承しました。
現在、追手門、追手向櫓、多聞櫓が復元されており、天守台石垣の「逆さ地蔵」の石垣など、見ごたえがありました。
また。付近には金魚の養殖池が無数にあり印象的でした。

2008年12月18日

大阪城

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大阪城は、摂津国(現大阪府大阪市)に、1583年豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に30国の諸大名を動員して5層8階の天守を有する総構えの日本一堅固な大城郭を築きました。
1615年、大阪夏の陣で難攻不落の大阪城も家康によりついに開城し、城と共に豊臣家も滅亡しました。
1619年2代将軍秀忠が大阪城の再建を決定し、北陸・西国の47大名家により豊臣時代を凌ぐ大城郭に整備され、幕府の西国統治の中心として幕末まで城代が置かれました。
1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、城の大半を消失しました。
現在、復興天守がそびえ、重文の千貫櫓や多聞櫓・二の丸大手門が当時を偲ばせ、堅固な花崗岩の高石垣、枡形の蛸石と名の付いた巨石が見所でした。


2008年12月19日

小倉城

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小倉城は、豊前国(現福岡県北九州市)に、1600年細川忠興が豊前で39万9千石を領して入封、1602年から小倉城の大改修を開始し、5年の歳月をかけて、4層の天守を有し、高石垣に堀を廻らした総構えの城を完成させました。
1632年細川氏は肥後に転封替わって譜代大名の小笠原氏が15万石で入封し、幕末まで10代続き
ました。
1865年第2次長州征伐の時、小倉城は長州軍の奇襲攻撃により、敗走、退却の為、自焼されました。
現在、4層5階の模擬復興天守が建っており、「南蛮造」と呼ばれる最上階が下の階より張り出した独特の造りで綺麗でした。

2008年12月20日

臼杵城

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臼杵城は、豊後国(現大分県臼杵市)に、1562年キリシタン大名の大友宗麟が府内から本拠地を移して築城しました。その後、島津氏との耳川の戦いを経て1587年秀吉による九州国割で豊後1国を安堵されました。
1597年、文禄の役後、大友氏は、役での咎により改易、替わって太田一吉が入封しました。
1600年、西軍に味方した太田氏は改易、稲葉貞道が5万石で入封して城の大改修を始め1618年に近世城郭として完成しました。
城内には、31の櫓fが建っていましたが、現在、二の丸西南隅に建つ畳櫓が現存、近年、二の丸大手口の大門櫓が復元され2基の櫓がたっており、大門櫓前からの城下の眺めは最高でした。

2008年12月21日

山形城

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山形城は、出羽国(現山形県山形市)に、1357年奥州探題斯波家兼の子羽州探題斯波兼頼が築城しました。また兼頼は、斯波氏を廃して最上氏を名乗りました。
最上氏は出羽地域に勢力を拡げて11代義光の時代に戦国大名として山形城の整備・拡張を行い近世城郭にしました。
関ヶ原では、東軍に味方して伊達政宗と共に上杉景勝と戦い、その功績で24万石から57万石の大大名になり、庄内地域も領しました。
1622年最上氏は、義俊の代にお家騒動で改易、鳥居忠政が20万石で入封後、城主は次々替わり12氏にも及び水野氏5万石の時代に明治を迎えています。
現在、二の丸を中心に復元整備されており、二の丸東大手門に波多聞櫓、続多聞櫓が連結した枡形門は威容で豪壮でした。また、大雪が降っており、最上義光の銅像が真っ白でした。

小田原城

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小田原城は、相模国(現神奈川県小田原市)に、中世、土肥遠平、大森頼春によって築城されました。
1495年、堀越公方から伊豆の支配権を得た伊勢新九郎(北条早雲)が、大森氏より小田原城を奪い、相模の豪族三浦氏を滅ぼして伊豆・相模を平定しました。
北条氏はその後、氏綱、氏康と続き小田原城は、城下町も一体となった城郭都市となりその周囲は20キロメートルにも及ぶ壮大な規模の大城郭に整備されました。
1561年の上杉謙信、1569年の武田信玄との戦いも小田原籠城で退けました。
更に、氏政、氏直と続き両国も伊豆・相模・上野・下野・下総・など関東1円に及び、250万石を超える大大名に成長しました。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏は遂に降伏、替わって入封した徳川家康により外郭部を破却され譜代大名が城主を歴任し、1686年大久保忠朝が11万3千石で入封して明治まで続きました。
現在3層4階の復元天守がそびえ立ち、銅門、常盤木門などの枡形門も復元されていました。
また、天守からの相模湾の眺めは最高でした。

2008年12月23日

小諸城

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小諸城は、信濃国(現長野県小諸市)に、1487年佐久地方の土豪、大井光忠が築いたのが始まりとされ、その後1554年に武田信玄の命により、山本勘助らが縄張りをして戦国城郭として完成しました。
武田家滅亡後、織田・北条・徳川氏の支配を経て1590年仙石秀久が5万石で入封、城の大改修を行い3層の天守、大手門、子の忠政も三之門などを整備し近世城郭としました。
1622年仙石氏は転封、譜代大名が次々入れ替わり1702年牧野康重が1万5千石で入封、明治まで牧野氏が居城しました。
城跡は現在公園(懐古園)として残っており、入り口の、三之門、野面積みの苔むした石垣、天守台、
線路を挟んだ市内には、大手門も現存していました。
また、小諸城は、全国的にも珍しい、城下町より、城の方が低いところに建つ「穴城」で浅間山の火山灰の積もる崩れやすい断崖を天然の要害とした堅城でした。

2008年12月24日

名古屋城

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名古屋城は、尾張国(現愛知県名古屋市)に、室町時代には、那古野城と呼ばれ、駿河守護今川氏によって築かれました。
1538年、織田信秀によって那古野城は攻略され、子の織田信長も城主を務めました。
その後、尾張の拠点は、清洲城に移り、1582年頃に廃城になりました。
1610年、徳川家康は大阪の豊臣秀頼を牽制する為に、9男義直を尾張1国50万3千石に封じて那古野城の跡地に外様大名20家による天下普請で1614年に完成し、5層7階地下1階の大天守に連結式の小天守、清洲城天守移築の3層の清洲櫓、12基の2重櫓、多数の多門櫓を有する大城郭として徳川御三家・尾張家の居城として明治まで続きました。
名古屋城といえば「金鯱」で金の純度は、85%以上、使われた金は慶長小判で1万7975両にも及び純金換算で215キロになります。(いくらになるんだ~。)
ps.天守閣内に模型があり、そらも喜んでいました。

春日山城

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春日山城は越後国(現新潟県上越市)に、越後守護代、長尾為景が築城を始め、その子、景虎(後の
上杉謙信)の時代に完成しました。
謙信は、春日山を拠点に関東・北信・北陸に勢力を拡げ、北条・武田・織田氏と戦いました。
1578年には推定140万石の大大名に成長しましたが同年病没し、養子の景勝が後を継ぎました。
1598年、上杉景勝は会津120万石に転封、替わって堀秀治が入封、福島城を築き春日山城は廃城となりました。
現在城跡は、所々整備され重臣の屋敷跡や毘沙門堂、大井戸、等があり、本丸からの直江津の町並みと日本海がとても綺麗でした。

2008年12月26日

金沢城

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金沢城は、加賀国(現石川県金沢市)に、1581年、佐久間盛政が、一向宗の城郭寺院、尾山御坊跡地に築城しました。
柴田勝家との戦いに勝利した秀吉は、前田利家に北加賀2郡を加増して能登小丸山城から尾山城に居城を移し金沢城と名を改めました。
1587年、利家に仕えた、キリシタン大名、高山右近の縄張りによって改修、整備されました。
利家死後も、利長、利常と城郭を改修し、能登・加賀・越中120万石の大大名にふさわしく、とても優美な城になりました。
現在、重文の石川門や三十間長屋が現存しており、なまこ壁や千鳥破風、唐破風などが優美な印象を出していました。また、五十間長屋、菱櫓、橋詰門などが復元されており、とても壮大でした。

2008年12月27日

和歌山城

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和歌山城は、紀伊国(現和歌山県和歌山市)に、1585年秀吉の弟、豊臣秀長が紀伊・和泉・大和を領して、藤堂高虎の普請により築城されました。
1600年、関ヶ原で戦功を上げた浅野幸長が37万6千石で入封、近世城郭へと改修しました。
1619年、浅野氏は、広島に転封、替わって徳川家康の10男、徳川頼宣が、55万5千石で入封、幕府より普請費用に銀2千貫を供与されて、1621年、1629年に拡張整備してほぼ、現在見られる姿になりました。
徳川御三家の一つ紀州家として8代将軍吉宗や、14代将軍家茂を輩出しました。
現在、3層3階の大天守に小天守、乾櫓、二の門櫓、二の門が多聞櫓で結ばれた連立式天守が外観復元され江戸時代の勇姿を見せており、現存する重文の岡口門も堂々としていい趣でした。
また、西の丸には、紅葉渓庭園と呼ばれる回遊式池泉庭園があり、中島越しに見る、土橋と、斜面の築山の樹木がとても綺麗で癒されました。

飫肥城

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飫肥城は、日向国(現宮崎県日南市)に、室町時代、島津氏の支城として酒谷川と東北の山川に挟まれた丘陵地に築かれていました。
1568年、伊東義祐が83年間の島津氏との抗争の末、飫肥城を落とし、2男祐兵を城主としました。
1572年、島津氏の逆襲に逢い伊東氏は弱体化し、1577年島津氏の支配下に属しました。
1587年、秀吉の九州平定後、伊東祐兵が城主に返り咲き、城を改修しました。
1600年、関ヶ原で東軍に属した伊東氏は、3万5千石の旧領を家康より安堵され、明治まで伊東氏
14代の居城として機能しました。
現在、堂々とした櫓門形式の大手門や、美しい切込みはぎの大手枡形石垣などが復元整備されており、周辺に残る、武家屋敷、豫章館、藩校振徳堂など江戸時代の景観が数多く遺されていました。

2009年02月19日

仙台城

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仙台城(青葉城)は、陸奥国(現宮城県仙台市)に、1600年伊達政宗が家康より仙台58万石を拝領し青葉山に築城をし領内北部の岩出山から領内統治しやすい仙台に居城を移しました。
仙台城は天守閣を持たず広大な御殿と4基の三重櫓を持つ近世城郭では珍しい山城で、南は龍ノ口と呼ばれる断崖、北から東は広瀬川が蛇行しとても堅固な城でした。
2代忠宗の頃には二の丸を造営し居館もうつされました。
伊達家は1634年62万石に加増され明治維新まで存続しました。
大手門は肥後名護屋城の大手門を秀吉から拝領して移築したもので国宝に指定されていましだが戦災で消失し、現在、大手門隅櫓復元されており、二の丸の長塀・本丸の切石積みの高石垣と共に当時の面影を残していました。
また、本丸からの仙台の景色がとても綺麗でした。

2009年02月20日

白石城

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白石城は陸奥国(現宮城県白石市)にあり、もともと伊達氏に従属した白石氏の居城でしたが、秀吉の奥州仕置によって蒲生氏郷の支城になり北国への備えの城として大改修され、その後は上杉領となり配下の甘粕氏が入城しました。
関ヶ原合戦直前に正宗は、家康の意をうけて白石城を奪還し1602年重臣、片倉景綱が1万3千石で封ぜられ1国1城令の後も例外として片倉氏11代の居城として明治まで存続しました。
戊辰戦争では、奥州25藩と越後6藩がこの城に集まって合議をしました。(奥羽越列藩同盟)
現在城址には忠実に復元された三重櫓(三重三階の天守)があり、最上階の華頭窓・高欄・廻縁などの桃山風の望楼建築と野面積みの石垣が見所でした。
また、本丸北側の大手一の門と二の門も復元されており、塀によって、かぎ状に折れ曲がった枡形空間になっていてこちらも楽しめました。

2009年05月04日

水戸城

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水戸城は、(常陸国)現茨城県水戸市に、1190~1198年に、馬場氏によって築城されたのが始まりとされ、当時は、馬場城と呼ばれていました。
1590年、秀吉より常陸一国(54万石)で入封した、佐竹義重・義宣、親子により、改修整備され名称も水戸城と改められました。
1602年、佐竹氏は出羽に移封、替わって家康の五男、武田信吉が15万石で入封しましたが翌年没し、十男の徳川頼宣が20万石で入封しました。
1609年、頼宣は、駿河に移封し、十一男の徳川頼房が25万石で入封し、以降明治まで、徳川御三家、水戸家として明治まで存続しました。
城は、連郭式の平山城で天守は無く、三重五階の御三階櫓が、天守代用としてあり、土塁と空堀を中心とした、政庁中心の城でした。
現在、県立水戸一高に移築された薬医門、三の丸に藩校の弘道館が現存し国の重文に指定されており、藩校としては日本最大で当時の学問に対する重要性が窺えました。
また、三の丸付近にあった、大きな椎の木が印象的でした。

2009年05月05日

土浦城

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土浦城は、(常陸国)現茨城県土浦市に、1429~1441年に小田氏の家臣、今泉三郎によって整備され、1590年家康の関東移封に伴い、二男、結城秀康の所領となりました。
関ヶ原後、秀康は越前に移封し、以後、松平(藤井)氏3万5千石・西尾氏2万石・朽木氏3万石・土屋氏4万5千石・松平(大河内)氏2万2千石と譜代大名が入れ替わり、1687年、土屋氏が6万5千石で再封され明治まで在城しました。
城は、桜川や境川、霞ヶ浦の水を利用し、五重の堀を巡らした堅固なもので、その姿が水に浮かぶ亀に似ていることから亀城とも呼ばれています。
現在、本丸、二の丸の一部が亀城公園として整備されており、1556年建築の太鼓門櫓が現存(関東唯一の楼門形式の櫓門)・高麗門・霞門も移築され、近年西櫓・東櫓も復元され、江戸時代の姿を取り戻しており、それぞれ見所でした。

2009年05月06日

佐倉城

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佐倉城は、(下総国)現千葉県佐倉市に、1610年、土井利勝が3万2千石で入封し、下総の豪族、千葉氏の未完の城、鹿島城跡を利用して7年の歳月をかけて築城されました。
その後、江戸東北防衛の要として重要視された為、城主はめまぐるしく替わり、その数は12諸侯にもなり、その多くが老中職に就いていたことから俗に老中の城とも呼ばれ、1746年、堀田氏が10万石で入封して明治まで在城しました。
城は、北に印旛沼や利根川があり、他の三方向も低湿地帯という自然の要害を持ち、更に大規模な塁濠を配した堅城で、本丸には、3重4階の天守に2基の櫓があり、その1つ、銅櫓は、家康より拝領し、江戸城から移築したものと伝えられています。
見所は、椎木曲輪にある、大きな角馬出で深さ規模共に見応えがあり、他にも、天守台、銅櫓跡の土居や本丸北側と南側にある、出丸と水堀も良く残っており、旧状を偲ぶことが出来ました。

2009年05月07日

高岡城

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高岡城は、(越中国)現富山県高岡市に、1609年、加賀二代藩主、前田利長が隠居城としていた富山城が、大火で焼失した為、当時前田家に客将としていた、築城の名手、高山右近の縄張りによって、庄川と小矢部川の扇状地にある丘陵に築かれました。
その後、利長は避難していた魚津城から高岡に隠居領16万石で入場し、城下町も整備し、6年後の1614年に没し、城は翌年の一国一城令によって未完成のまま廃城になりましたが、高岡町奉行所の管理下で米蔵などの備蓄庫として使用され、曲輪や濠などは残され、軍事的要素も秘めていました。
現在、城址には、5つの曲輪や伏流水を利用した城域の3割を占める水濠が巡らされており、本丸と二の丸の間の土橋には、打込ハギの乱積みの石垣も良好に残っており、見所で、本丸が広大なのも印象的でした。

2009年05月08日

富山城

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富山城は、(越中国)現富山県富山市に、1543年、越中守護代神保長職によって築城されました。
1581年、佐々成政が越中半国38万石で入城し、上杉氏に備える為、大規模な改修を加えましたが、1585年、成政は、本能寺後、不仲になっていた秀吉に攻められて降伏し、替わって前田利長が32万石で入城し改修しました。
1609年、富山城は大火で焼失、利長は高岡に居城を移した為、城は荒廃しました。
1639年、加賀藩三代藩主、前田利常は、次男利次に10万石を分封し、富山藩が成立し、荒廃した城を整備し、以降、富山前田家十三代の居城として明治まで至りました。
現在城址には、昭和29年の富山産業大博覧会の時に建てられた、戦後初の3層4階の模擬天守が建ち、国の登録有形文化財に指定されています。
また、1849年建築の千歳御門が城内に再移築されており、石垣や濠と共に見所でした。

2009年09月25日

田中城

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田中城は、(駿河国)現静岡県藤枝市に、室町時代に今川氏の家臣、一色氏が築城した一色城が始まりとされ、1570年、武田信玄に攻略され、家臣の馬場美濃守信房が改修し田中城と改称しました。
1582年武田氏が滅亡すると徳川氏の支配を受け、家康移封後は、駿府城主中村一氏の支城として機能しました。
1601年酒井忠利が1万石で入封し、1607年には駿府に隠居した家康の鷹狩の際に宿泊する田中御殿として整備され、1609年からは天領になりました。
1633年、松平(桜井)忠重が2万5千石で入封して以降11氏が頻繁に入れ替り、1730年に本多正矩が4万石で入封して明治まで本多家が在城しました。
城は、同心円状に曲輪と堀が重なる甲州流築城術の模範とされ、最小限の塁線で最大面積が得られる為最少人数で守れました。
現在、土塁の一部や三日月堀が遺されており、下屋敷に本丸二重櫓、仲間部屋、庭園などが移築復元されており、櫓としては珍しい、重箱造・寄棟屋根の景観が印象的でした。
また、1616年、家康が鷹狩の際に鯛の天ぷらを食して倒れた所として知られています。

2009年09月26日

駿府城

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駿府城は、(駿河国)現静岡県静岡市葵区に、1585年に徳川家康が駿河守護今川氏の館跡に新たに築城した城郭で、関東移封後の1590年に豊臣大名の中村一氏が入封し、更に徳川の押さえの城として整備されました。
1601年、江戸に幕府を開いた家康は、異母弟・内藤信成を4万石で城主とし、1605年、将軍職を秀忠に譲ると1607年に自身の隠居城として天下普請によって整備しました。
城は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守(1635年焼失)がそびえる堂々とした城郭で、江戸と同じく大御所政治の中心としておおいに賑わいました。
その後、紀州移封まで家康の10男、徳川頼宣(紀州家50万石)が、1625年には秀忠の三男、徳川忠長(駿河家55万石)が城主を務め、、忠長改易後は天領となり城代が在城しました。
1868年、明治維新後、徳川家達(将軍家)が70万石で入封し、廃藩置県を迎えました。
現在、大手枡形や北御門の石垣や中堀・外堀・水路が往時の姿を留め、二の丸巽櫓・東御門(櫓門)と続多聞櫓が復元されており、それぞれ見所で、さすが大納言家の城郭だなぁ~と思いました。

2009年09月27日

掛川城

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掛川城は、(遠江国)現静岡県掛川市に、15世紀後半、駿河守護今川氏親が遠江進出の拠点として家臣の朝比奈泰煕に命じて築城されました。
1568年、駿府を武田氏に追われた今川氏真は、掛川城に籠城の末、徳川家康に降伏し、今川家は滅亡、家臣の石川家成・康通父子を城代に置きました。
1590年、家康が関東に移封すると、豊臣大名の山内一豊が5万石で入封、家康への備えとして近世城郭に改修整備されました。
1600年、関ヶ原の際に東軍についた一豊は、掛川を家康に献上し、戦後土佐24万石に転封、翌年家康の異父弟の松平(久松)定勝が3万石で入封ご城主はめまぐるしく替わり13家にも及びました。
1746年太田資俊が5万石で入封し、以後太田氏が7代続き明治を迎えました。
現在、三層四階の復興天守や1861年に再建された重文の二の丸御殿、大手門に1859年建築の番所、時を知らせていた太鼓櫓などが移築、復元されており、櫓越しの天守の景観が見事で見応えがありました。

2009年09月29日

躑躅ケ崎館

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躑躅ケ崎館は、(甲斐国)現山梨県甲府市にあり、1519年に武田信虎によって築城された方形屋形で、信虎・信玄・勝頼の三代60年にわたって甲斐の中心府中として機能しました。
信玄晩年には、甲斐・信濃・駿河・上野・飛騨・美濃・遠江・三河に勢力を広げ、120万石の城下としておおいに賑わいました。
武田氏滅亡後は、川尻秀隆が河内領を除く甲斐・諏訪22万石で入封しましたが本能寺の変が勃発し秀隆も武田遺臣に殺害されました。
1583年、徳川領となった甲斐には、平岩親吉が城代として入り、天守台も築かれ、甲府城築城にともない政務の中心は甲府城になりました。
現在屋形跡は、信玄公を祀る武田神社になっており、大手門の土塁や石垣、天守台、西曲輪の虎口、外堀・内堀の遺構があり、整備された大手馬出し等とともに見所でした。
人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。の通り、人心を捉え両国に城を築かなかった稀有な領主信玄公の偉大さを改めて感じる一日でした。

2009年09月30日

苗木城

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苗木城は、(美濃国)現岐阜県中津川市に、南北朝時代、岩村城主遠山氏の一族、遠山景村が築いたもので、戦国時代は、織田氏と武田氏の争奪戦の舞台になり、一時森長可に攻め落とされましたが、関ヶ原の戦いの際に一族の遠山友忠・友政父子が城を奪回し、以降江戸時代を通して遠山氏1万石の城として明治まで12代続きました。
城は、木曽川を見下ろす標高426mの高森山の頂上に三重の天守、西に二の丸、北に三の丸を配した山城で、自然石を組み合わせた大矢倉跡石垣や天守台の巨岩などが当時のまま残っており、天守からの木曽川の景色とともに見所でした。

2009年10月01日

田原城

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田原城は、(三河国)現愛知県田原市に、1480年三河に勢力を持っていた戸田氏によって築かれ、1547年、今川義元によって攻略されると渥美半島を抑える支城として機能しました。
桶狭間の戦いで義元が討たれると、徳川家康によって攻略され、関東移封後は、池田輝政が15万石で吉田城に入封し、田原城も支城として近世城郭に整備されました。
関ヶ原後は、戸田尊次が1万石で旧領に復帰した後、1664年に三宅康勝が1万2千石で入封し明治まで三宅氏が在城しました。
現在、石垣・土塁・堀の一部が残っており、復興された二の丸三重櫓や桜門から続く海鼠壁の塀がなんともいい感じでした。

2009年10月02日

吉田城

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吉田城は、(三河国)現愛知県豊橋市に、1505年、牧野古白が今川氏親の命で築城した今橋城が始まりとされ、義元の時代に吉田城と改称されました。
1565年、独立した徳川家康によって攻略され、東三河の旗頭として酒井忠次が城代を務めました。
1590年、家康が関東に移封すると池田輝政が15万石で入封、近世城郭として整備しましたが、関ヶ原後、姫路に転封し、替わって1601年松平(竹谷)氏が3万石で入封して以後、譜代大名がかわるがわる10家替わり、1749年、松平(大河内)氏が7万石で入封し明治まで在城しました。
現在、天守代用の鉄櫓が再建されており、豊川沿いの池田氏時代の野面積石垣とともに見所でした。

2009年10月03日

横須賀城

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横須賀城は、(遠江国)現静岡県掛川市にあり、1578年に家康が、武田勝頼に攻略されていた高天神城を奪還する為、家臣の大須賀康高に命じて築城されました。(長篠後奪還)。
1590年、家康が関東に移封すると、豊臣譜代の有馬豊氏が3万石で入封しました。
1601年、松平(大須賀)氏が5万5千石で旧領に復帰し、近世城郭に整備されその後、松平(能見)氏2万6千石、井上氏5万2千石、本多氏5万石と替わり、1682年西尾忠成が2万5千石で入封し、8代続き明治を迎えました。
城は、天竜川から運ばれた玉石を利用した石垣で造られており、全国的にも例が無く、丸く揃った石がなんとも離島の集落の景観のようでいい感じでした。
また、天守台土塁、三日月堀などの遺構もあり、海風を受けながら、心地よい散策でした。

2009年10月04日

浜松城

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浜松城は、(遠江国)現静岡県浜松市にあり、1570年、徳川家康がもともと引間城のあった所に、新たに遠江支配の拠点として築城し、自身も17年間在城し、1572年の三方ケ原の合戦では、武田信玄に大敗を喫し、馬上で糞をしながら九死に一生を得たことでも知られています。
家康の関東移封後は、豊臣大名の堀尾吉晴が12万石で入封し、大幅な大改修を行い近世城郭に整備されました。
関ヶ原で東軍についた堀尾氏は出雲松江24万石に移封、替わって松平(桜井)忠頼が5万石で入封後、譜代大名がめまぐるしく替わり(12家)、1845年井上正春が6万石で入封し、明治まで在城しました。
現在、模擬天守が再建されており、天守台や曲輪の特徴ある野面積みの石垣との景観が戦国時代を偲ばせていてなんともいい感じでした。
また、天保の改革の水野忠邦など、老中や幕閣への登竜門的な出世城としても知られており、是非あやかりたい今日この頃でした。

2009年10月05日

西尾城

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西尾城は、(三河国)現愛知県西尾市にあり、吉良氏代々の居城が在った場所に1561年家康の家臣酒井正親が封じられ、1585年その子重忠によって大幅に整備され二の丸に天守が設けられ、その後、家康が関東に移封すると豊臣秀次の家老田中吉政が5万7千石で岡崎に入封(秀次死後10万石に加増)し、西尾城も支城として拡張整備されました。
関ヶ原で東軍に付いた吉政は戦後、筑後柳川32万石に転封、替わって本多康俊が2万石で入封後、譜代大名が9家替わり、1764年松平(大給)乗祐が6万石で入封し五代続き明治を迎えました。
城は、本丸に隅櫓があるのに、二の丸に天守が建っていた全国的にも珍しい縄張りで、堀に土塁、本丸丑寅櫓(3重櫓)、二の丸鍮石門が復元整備れて堂々としたたたずまいでした。
また、五摂家の1つ近衛家の数奇屋棟と茶室が移築されており、公家の生活ぶりが伺えて楽しめました。

2009年10月06日

岡崎城

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岡崎城は、(三河国)現愛知県岡崎市にあり、1455年に三河守護代西郷頼嗣によって築かれ1531年松平清康(家康の祖父)が攻略し、拡張整備しました。
1542年、家康が生を受けますが、3年後父広忠は家臣の謀反で殺害され、織田氏、今川氏の侵略を受けました。
1560年、今川義元が桶狭間で敗れると、家康(松平元康)は、岡崎城で自立、三河制圧の拠点として浜松に移るまでの10年間在城し、その後嫡男の信康や家老の石川和正が城代を勤めました。
関東移封後は、田中吉政が入り総延長4.7キロにも及ぶ総構の堀など拡張整備しました。
1601年、本多康重が5万石で入封し、3代かけて近世城郭に整備され複合連結式の三重の天守も完成しました。
その後、家康誕生の地として家格の高い譜代大名が城主を勤め、1645年水野氏(5万石)、1762年松平(松井)氏(5万石)と替わり1769年本多忠粛が5万石で入封し、本多氏が明治まで在城しました。
現在、昭和34年に再建された天守、大手門、井戸櫓があり、打込はぎの石垣が残る本丸と二の丸を隔てる空掘り、家康産湯の井戸など見所でした。
ps.個人的に徳川四天王の本多忠勝が好きで幾多の合戦を乗り越えた男!!忠勝公の銅像とのファミリーショットは我が家の殿堂入りになりそうです。今度は大多喜に行くぞ!!

2009年10月07日

岩村城

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岩村城は、(美濃国)現岐阜県恵那市岩村町にあり、備中松山城、大和高取城と共に日本三代山城に数えられ、鎌倉時代中期に遠山氏によって築城され、戦国期には、織田家と武田家の戦いの場となり、信長の叔母や5男御坊丸、武田24将の秋山信友が城代を務めました。
1575年、織田軍は長篠の戦後衰退した武田家より岩村城を奪還し川尻秀隆(5万石)を封じ、その後も森長可・森忠政(7万石)と近世城郭へと城を改修し、豊臣期には田丸忠昌が4万石で封じられました。
1600年、 田丸氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易、替わって松平(大給)家乗が2万石で入城し、山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備しました。 その後、1645年に丹羽氏信が2万石で入城後。1702年に松平(大給)乗紀が2万石(後加増され3万石)で再封し、全国で3番目となる藩校を設け、以後松平(大給)氏が明治まで在城しました。
現在、本丸・出丸には複雑に入り組む石垣が良好に残っており、復元された表御門・平重門・太鼓櫓、知新館、藩主邸の一部等の建築群と共に見所で、苔むした枡形の石垣が時代感を醸していてとてもいい感じでした。

2010年01月28日

高遠城

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高遠城は、信濃国(現長野県伊那市高遠町)に、諏訪氏の一族の高遠氏が築城したのが始まりとされ、信玄の信濃侵攻で武田領になると、1457年に山本勘助によって改修され秋山信友が城代を務めました。
1562年には、諏訪勝頼(武田勝頼)が城主となり伊那郡代を務め、その後も信玄の弟の武田信廉、勝頼の弟の仁科盛信が城主を務め、1582年の信長による甲州武田攻めでは、盛信はわずか3千の兵で5万の信忠軍に篭城戦を挑み壮絶な最期を遂げた地としても知られています。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、保科氏(2万5千石)、鳥居氏(3万石)と城主が交代し、1691年に内藤清枚が3万3千石で入封し、以後、内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。
城は、中世からの土塁の空堀や大手の枡形などが残されており、空堀からの桜雲橋・問屋門、太鼓櫓など見所で、春には1500本のタカトオコヒガンが秋には紅葉が咲き誇り、散っていった名も無き兵士を想い偲ぶ古城に平和をありがたく想う1日でした。

2010年05月16日

忍城

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忍城は、武蔵国(現埼玉県行田市)に文明年間(1469~86年)の初め頃成田氏によって築城され、上杉氏や北条氏の争いの中、成田氏が4代100年にわたって統治した城で小田原攻めの際も石田光成による水攻めを耐え抜いた事でも知られ、この事から別名忍の浮き城とも呼ばれています。
徳川家康の関東入部後は、松平(深溝)家忠が1万石で入封し、1952年からは、家康の四男の松平忠吉が10万石で忍城に配置され、忍藩10万石の政庁となりました。
関ヶ原後、忠吉は尾張52万石に移封し、一時天領になりますが1633年に松平(長沢・大河内、3万石)氏が1639年からは阿部氏(5万石→10万石)が入封、城の拡張整備が行われ、往事の縄張りや御三階櫓は、1702年に完成したといわれています。
見所は、現存する堀の一部と諏訪曲輪の土塁、三重三階の御三階櫓に鐘楼で幾多の戦いを乗り越えた関東7名城に数えられる忍城良い感じでした。

2010年05月17日

館林城

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館林城は、上野国(現群馬県館林市)に、1532年、狐の尾曳伝説で知られる赤井照光が築城したのが始まりとされ当時は尾曳城と呼ばれていました。
1590年、家康が関東に移封すると家臣の榊原康政が10万石で入封、その後も松平(大給)氏6万石、1662年には4代将軍徳川家綱の弟徳川綱吉(館林徳川家25万石・後の5代将軍)が入封、城を整備しました。
1680年、綱吉は将軍になり子の徳松が館林城主となりますが1683年に天折により廃藩となり廃城となりますが、1707年松平(越智)氏が2万4千石で入封し、城を再築その後譜代大名が入れ替り、1845年秋元氏が6万石で入封し明治まで在城しました。
現在、本丸・三の丸の一部に土塁が残るほか、天然の要害とうたわれた湖沼、1983年に復元整備された土橋門があり、枡形と共に見所でした。
ps,小さくて顔を出せない姫様(そら)でした~~。

2010年05月18日

大垣城

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大垣城は、美濃国(現岐阜県大垣市)に、1535年 宮川吉左衛門尉安定により創建し、1596年に伊藤祐盛が天守を造営したといわれています。
1600年の関ヶ原の際には城主伊東盛宗(3万4千石)が西軍に付いた為、西軍の本陣になり3日間の篭城戦の末開城し、その後は家康の家臣、石川康通が5万石で入封後城を修築、その後も松平(久松)氏・5万石、岡部氏・5万石、松平(久松)氏・6万石と続き、1635年に戸田氏鉄が10万石で入封して明治まで戸田氏12代の居城として機能しました。
現在本丸には、戦災で焼けた珍しい四層四階の天守(焼失前は国宝)が再建され、東門・多聞櫓・艮櫓・乾櫓も復元されており、天守は修復中でしたが良好に残る本丸石垣と共に見所でした。

2010年05月19日

岐阜城

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岐阜城は、美濃国(現岐阜県岐阜市)に、1201年、二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まり
とされ、戦国期には稲葉山城と呼ばれ斉藤道三・義龍・龍興と3代に渡り斉藤家が統治しました。
1567年、美濃に侵攻した織田信長により落城し、稲葉山城を岐阜城と改め小牧山から居城を移転し城郭を整備しました。
1576年、信長は安土に居城を移し嫡男の信忠が尾張・美濃の2国を領して城主となりますが、1582年本能寺の変が勃発し信忠も自害、その後の清洲会議で信長の3男の信孝が三法師(信忠の嫡男・後の織田秀信)の後見として美濃国を拝領し城主となりました。
その後も池田元助・輝政・羽柴秀勝と続き、1592年織田秀信が13万石で再封統治しましたが、関ヶ原で西軍に付き敗北、翌1601年廃城となりました。
城址には現在、山頂に三重四階の模擬天守や隅櫓、居館跡に門や石垣、庭園が整備されており、かつての景色とは異なりますが、天守からの長良川の眺めや濃尾平野がなんとも天下人気分で良い感じでした。
ps,眺めはそのうちタワー展望好きパパで掲載します・・・こうご期待!!

2010年05月20日

郡上八幡城

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郡上八幡城は、美濃国(現岐阜県郡上市)に、1559年遠藤盛数が宗家の東氏を滅ぼして標高354メートルの八幡山に砦を築いたのが始まりとされ、その後も稲葉貞通・遠藤慶隆の興亡を経て遠藤常友の代に近世城郭として完成しました。
その後、井上氏(5万石)、金森氏(3万8千石)と続き、1758年に青山幸道が4万8千石で入封して殿町に居館が築かれ明治まで青山氏7代の居城として機能しました。
現在、1933年に当時国宝であった大垣城を参考に建てた4層5階の模擬天守や隅櫓があり、良好に残る本丸の野面積石垣、奥美濃の山並みに吉田川・市街地の景観がなんとも良い感じでした。


2010年05月21日

丸岡城

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丸岡城は、越前国(現福井県坂井市)に、1576年、柴田勝豊(柴田勝家の甥)が坂井平野の東部丘陵地に築いた平山城で2層3階の天守は現存最古の天守といわれ国の重文(1948年の福井地震によって倒壊する前は国宝でした)に指定されています。
1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は滅亡替わって丹羽長秀が若狭、越前、加賀二郡・120万石)を領して北庄城に入封、丸岡城には青山宗勝が4万6千石で入りましたが関ヶ原で西軍に付いた為、所領を没収され、家康の次男結城秀康が越前68万石で入封後、今村氏(2万5千石)、本多氏(4万石)と続き、1695年に有馬清純が5万石で入封し、明治まで8代160年在城しました。
見所は、なんと言っても笏谷石で造られた鯱や石瓦で他に例が無く、望楼型の古い天守にマッチしていて良い感じでした。
また、城下には樹齢500年のタブの巨木や家老有馬天然屋敷跡庭園ものこされており僅かに残る外堀と共にこちらも見所でした。

2010年05月22日

福井城

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福井城は、越前国(現福井県福井市)に、1600年、家康の次男結城秀康が越前68万石で入封し柴田勝家の築いた北庄城を大改修し、北陸諸大名による天下普請により6年の歳月をかけて3重の水堀で囲んだ輪郭式の縄張りに4層5階の天守を完成させました。
1604年、秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家として一門で約100万石を領しました。
1659年・1669年と二度の大火で天守は焼失し、巽櫓、未申櫓などの三重櫓が以後天守代用とされ幕末まで減封されながらも福井松平家17代32万石の居城として機能しました。
現在城址は、大部分が福井県庁舎になっていますが、本丸の塀や石垣に内堀、福井地震により歪んだ天守台石垣、福の井(福井の語源になった井戸)、復元された舎人門があり、当時を忍ばせておりそれぞれ見所でした。

2010年05月23日

一乗谷城

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一乗谷城は、越前国(現福井県福井市)に、1471年朝倉孝景が越前守護斯波氏を破って一乗谷川沿いの細長い平地部の要害に築いた館で、四つの山城を含む縄張を有し武家屋敷、寺院、商店が建ち並ぶ戦国時代有数の城下町でした。
その後も、朝倉氏5代約100年にわたり越前の中心として栄えましたが、1573年の信長軍の侵攻によって一乗谷は破却され、その後は北庄城が政務の中心となりました。
現在城址には、上下の城戸や堀に土塁、朝倉義景の菩提を弔う為に秀吉が建立したのが始まりとされる松雲院の唐門、復元された町並みに、特別名称に指定されている四っの庭園など、かつての栄華を偲ばせていました。


2010年05月24日

越前大野城

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越前大野城は、越前国(現福井県大野市)に、1575年、越前攻めで巧を挙げた金森長近が大野郡3万石を与えられ、翌年から4年の歳月をかけて築城しました。
その後、越前松平氏領や、松平氏5万石を経て、1682年に土井利房が4万石で入封、以後土井氏8代の居城として明治まで在城しました。
見所は、1968年に古絵図をもとに復興された2層3階の天守に小天守、綺麗な野面積み石垣、空堀などで、天守からの城下の眺めも良い感じでした。

2010年05月25日

会津若松城

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会津若松城は、陸奥国(現福島県会津若松市)に、1384年、葦名直盛が築城した黒川城が始まりとされ伊達政宗の領有を経て、1590年、蒲生氏郷が42万石(後に加増されて92万石)で入封し、七重の天守を擁する城郭に整備し、名も黒川から若松と改め鶴ヶ城と称しました。
その後、上杉景勝(120万石)、蒲生秀行(60万石)、加藤嘉明(40万石)と続き、嘉明の代に五重の天守に改められました。
1643年、三代将軍徳川家光の異母兄弟である、保科正之が23万石で入城し、以後松平(保科)氏9代226年間在城しました。
現在城址には、1965年に再建された層塔型の五重5階の天守、鉄門、干飯櫓が復元整備されており、戊辰戦争において新政府軍の攻撃を1ヶ月耐え抜いた堅城に東側の高石垣が見所でした。

2010年05月26日

二本松城

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二本松城は、陸奥国(現福島県二本松市)に、奥州探題畠山氏が室町初期に標高345mの白旗ヶ峰に築きました。
1586年、伊達政宗によって畠山氏は滅亡し、領有を経て会津藩の支城として機能し、1643年に丹羽光重が10万石で入封、近世城郭に整備され、以後丹羽氏10代の居城となりました。
見所は、山頂と山麓にのこる見事な高石垣や1982年に再建された箕輪門、多門櫓、二層櫓などで、戊辰戦争でなくなった338名の若き少年達(二本松少年隊)の悲劇を考える一日でした。

2010年10月12日

勝山城博物館

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勝山城博物館は、福井県勝山市にあり、相互タクシー株式会社の創業者多田清翁によって平成元年より総工費70億円かけ・・・3年後完成し・・翌年から博物館として公開せれています。
外観は5層6階の天守閣で、57.8mと日本一の高さを誇り、花崗岩の天守台石垣だけでも15m・・・将軍家や御三家を凌ぐ200万石クラスの迫力が印象的で、展望所からは、白山連峰、平泉寺、同じく総工費380億円で翁によって建てられた清大寺が見渡せ・・スケールの大きさに驚愕し、展示物に興味が湧きませんでしたが、日本一の天守・日本一の座仏像・日本一の五重塔・・・勝山市・多田清翁凄・・・すぎます。

2011年06月29日

飯田城

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飯田城は信濃国(現長野県飯田市)に,13世紀初めに坂西長由により築かれたといわれ、東の天竜川と、南北を流れる天竜川支流の松川と野底川との間の河岸段丘上に築かれた平山城で、戦国時代には武田家の伊奈郡代・秋山信友により改修され、
武田氏滅亡後は伊那10万石で入封した毛利秀頼やその後の京極高知により近世城郭として整備されました。
関ヶ原後は、小笠原氏5万石・脇坂氏5万5千石と続き、1672年に堀親昌が二万石で入封し、明治まで堀氏がこの地を領しました。
現在城址には、将軍家より嫁を迎えた象徴の赤門(桜丸御門)が遺されており、二の丸内に残るエドヒガン桜や市内の木下家に移築現存する八間門など見所でした。

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